【タカトーホーム物語】 代表 大森美明の家づくりのルーツ


小さい頃は、おっとりとした性格だったと思います。

生まれは群馬県桐生市。
中々子どもができなかった両親の待望の一人っ子として私は生まれました。
その後、父親は、サラリーマンから仲間と独立をし、埼玉で事業を起こしていました。

幼少期は何不自由なく育った私でしたが、
ある日、両親から突然・・・

「田舎に行くぞ」          

小学校6年生の時の突然の引越しの宣告でした。
その後間もなく、中学に入学して数日後です。
私たち家族は引っ越しをすることになりました。

後から知ったことなのですが、
それは、父親の会社の事業が立ち行かなくなった末の引越しでした・・・

冒頭より、失礼しました。改めまして、こんにちは。
タカトーホーム代表の大森美明です。
このページでは、私の自己紹介も兼ねながら、タカトーホームの家づくりのルーツをお伝えできればと思います。

私のことをお話するのは、お恥ずかしくもありますが、
「家族みんなのカラダにも家計にも優しい家」この言葉に込められた想い、背景をお伝えしたい。そして何より、お客様のよりよい家づくりへの一歩に、少しでもお役に立てればと思い綴っておりますので、よろしければもう少しお付き合い頂ければ幸いです。

一変した生活、そこで決意した「建築家への道」

引越しが決まった私たち家族は、
故郷の群馬の地へ。

両親と祖母と6帖2間の長屋で4人暮らしが始まりました。

もちろん、6帖2間が悪いわけではないのですが、
今までの何不自由ない生活から一変した生活でしたので、
その変化にはショックを受けました。

両親が苦労・不自由している様子を見ながら、

「将来は絶対に自分で立派な家を建てるんだ」

と子どもながらに心に誓い、
将来は、一級建築士になって自分の会社をつくる!
と卒業文集に宣言するまでになっていました。

「プランを描いてみろ」父親の言葉から始まった私の家づくり

そんな夢を知ってか知らずか・・・
中学1年生の時でした。

父親から、

「自宅のプランを描いてみろ」

と言われました。

実は、引越しをしてからしばらく立った頃、
親戚から土地を貸してもらえることになり、
小さいながらも家を建てられることに。

そして、そのプランを私に描かせようということだったようです。

何を言ってるんだ? と一瞬戸惑いましたが、
その半面で、「面白そうだな、やってみたい!」という感情も生まれました。
また、父親からの言葉です。
一心不乱にプランを作成しました。

・・・が、当然、当時の私は完全な素人。そして、中学生。
家のプランは、そう簡単にできるわけはありませんでした。

やっとのことでプランが完成し、
現場に入り、大工さんに嫌がられながらも、(中学生のプランを作ってきて、指示するわけですから当然ですよね)必死にやりました。

そして完成・・・。

正直、当時は実感がありませんでした。
寧ろ「もっといい家を建てたい」そんな気持ちだったかも。

でも、大工さんがしっかり仕上げてくれて、
家族も喜んでいたような気がします。

今思えばそれが私の住宅屋としての第一歩。
この仕事の醍醐味を知るきっかけだったのかもしれません。

“人の3倍働け”の教えの元で


その後、私は一級建築士を目指し、大学は建築学科を卒業し建築の道へ。

「生まれ育った地元群馬で働きたい」という思いもあり、
初めての会社は群馬のゼネコンに就職しました。

当時の社長は厳しい人で、
「人の3倍働け」の教えの元、
5人いた新入社員は最終的には私一人に。

厳しい社長ではありましたが、その分自分も身を粉にして働く方で、
私は、その姿に魅力を感じ、まずは2年(建築士の受験資格が取れる節目)、
そして1年、1年と必死についていくことにしました。  

ゼネコン主体の会社でしたが私が任されたのは「住宅部門」。
住宅をやりたい!という私の想いを汲んで頂いての配属でした。 

当時、私と先輩の二人が主体となって運営していた部門でしたが、
入社早々ハプニングが・・・ 

なんと先輩(責任者)が辞めてしまったのです。

会社からの人員の補充はなし。
そこで、計らずも入社間もない私が責任者としてやることに・・・なってしまいました。

右も左もわからないまま

正直、始めは何もできませんでした。

大学の勉強も実際の現場ではほぼ意味が無い。
教えてくれる人もいない。
が、守らなければいけない納期が迫ってくる。

そんな状況でしたが・・・私は妙に前向きでした。
(ピンチが訪れた時の自分の性格、我ながら前向きだなぁと思います)

「これは面白い環境だ」
「どうしたらいいだろう」
と考え、試行錯誤してみることにしました。 

まずは現場の職人さんたちとのコミュニケーションを取ろうと思い、
現場の掃除から始めました。
すると、「違うよ!こうするんだよ!」と教えてくれる職人さんが現れました。

がて、職人さんから信頼を得られるようになってくると、
次はその職人さんにひたすら、質問攻め。
「この
見積はどうすればいいのですか?」
「もっと、効率よい作業の仕方はありませんか?」
本来、指示する私の立場を一切気にせず聞きまくりました。
当時は必死で、恥ずかしげもなく、とにかく一生懸命に職人さんに教えを請いました。

ピンチの時こそ前向きに。

と・・・前向きになりきれない時もあるかもしれませんが、
とにかく前に進むこと「どうすればいいだろう?」と考える癖はこのころ身についたのかもしれません。

そうして、3年目。
並行して勉強していた一級建築士の試験にも無事合格。

現場からの信頼も得られるようになってきた私に、
「一級建築士をとったなら、大型工事をやれ!」と社長から声がかかり、
1年がかりの大型物件、ビッグプロジェクトを任されるまでになったのです。

髙藤建設、髙藤社長(現会長)との出会い

そんなゼネコン時代に、
住宅事業の下請けとして共に家づくりをしていたのが、髙藤建設でした。

下請けと言っても、当時20代の私からすれば、髙藤会長はじめ皆先輩です。
たくさんお世話になり、飲みに連れていってもらったりもしました。

そんな中、
あるとき、軽トラックで髙藤会長がやってきました。

「大森くん、一杯飲みに行こうよ」

とのお誘い。
当時は気軽な気持ちで行ったのですが、このことが私の人生を大きく変えることになったのです。

「今度、株式会社をつくるから来てほしいんだよ。
 大森くん、来ればいきなり役員だよ」



突然の訪問、そして20代の若者になんてことを。 

なんて日だっ!

確かに、一見魅力的な話でしたが、私は、始めは断るつもりでした。
父親のことも経験し、事業をすることのリスクは感じていましたし、
第一、そのつもりは毛頭ありませんでしたから。

ただその一方で、このままゼネコンの仕事を続けることにも自問自答がありました。
「住宅の仕事をしたい」という強い想い。

「将来は絶対に自分で立派な家を建てるんだ」

という自分の想いが沸き上がっているのも感じていました。
このチャンスを掴むべきかどうか・・・
迷った末に私は、

「半年待って下さい」

と髙藤社長にお伝えしました。
実は、そうお伝えした時には私の心は決まっていました。

元の会社の仕事を終えた後、私は株式会社髙藤建設に身を置くことを決意したのです。

実は、そんな最中、私にとってもう一つ重大な決断が。
「結婚」をしたのもこの時期でした。

そんな時期に安定したゼネコンから根も葉もない住宅会社への転職。
「バカだなぁ」と自分の決断ながら呆れてしまいます。

苦しかった会社運営の中で見つけた家づくりの楽しさ

夢を持って入った髙藤建設ですが、当初は苦労の連続でした。
というのも、当初多方面から集まるはずだったメンバーが集まって来ない。
合流予定のメンバーもいましたが、各々の事情でスグに集まれる状態ではなかったのです。

住宅の監督は私一人。
ここでもまた、一人でやるしかない状態になってしまったのです。
当時28歳。
そこからの6,7年は私の人生の中でも一番働いた時間だったと思います。
ゼネコンと住宅会社の一番の違いは、
お客様と直接やり取りをすること。特に、まだ小さい髙藤建設ですから、
打合せからお引き渡し、アフターフォローまで、全て担当していました。
喜びや、時にはクレームもありました。
そんな「お客様と接する家づくり」をする中で私が知ったことがあります。

人のための家をつくるということ。

正直申し上げますと、現場一筋の当時は、
家を「ハコ」と考え、まず図面通りに仕上げることを最優先に、
「ハコ」の仕上がりが家の仕上がりだと考えていました。

が、

実際にお客様に出会い、打合せをし、引渡しをし、その反応を目の当たりにする。
それは良い反応ばかりではなく、時にお叱りの言葉も頂く。

不動産関係の下請けをしていた仕事で指示通り家をつくったのに、
「こんなはずじゃない」とお客様が涙ながらに訴えてくることもありました。
下請けとしての仕事でしたので、私としてはどうすることもできず、
もどかしい思いをしたこともありました。そんなこともあり、私の意識は、

「ハコ」から「人」に意識が移ったのでした。

「目の前のお客様をなんとか笑顔にしたい」
であるならば、どうしたらいいか・・・
お客様が喜ぶためにはどうしたらいいか・・・と考えるように。

そして、「効率」を追求していた家づくりから一変、
「いい家ってなんだろう?」と考える家づくりの研究が始まりました。

始めは、外国からやってきた工法「2✕4ツーバイフォー工法」に魅了され、
樹脂サッシや輸入建材など、その部材にまでこだわるようになっていきました。
そうする中であるとき、今のタカトーホームの大切な基盤になっている
「抗酸化工法」「稚内珪藻土」を使った家、家族が健康に住まうことができる家に出会ったのです。

抗酸化工法と稚内珪藻土

タカトーホームの家で欠かすことができない部材、
それが抗酸化工法と稚内珪藻土の壁です。

それぞれの詳細は、こちらのページでご説明させて頂くとして、
その効果は一言で言うと「住んだ家族が健康に住まい続けられること」。

普通は排気を出す家が、逆に外から取り入れた空気を浄化して外に出す。
そんな自然の浄化装置と言われるような家づくりとの出会いは、
私のそれまでの概念をガラっと変えることにもなりました。

この住まいは、住まう人を幸せにする理想の住まいだ。


こんな家を建てたかったんだ。
自分が建てたかった“立派な家”を見つけた気がして、
子どもの頃の記憶が蘇りました。

狭く、ストレスのある家での生活を変えたい!
自分の家づくりで家族を幸せにしたい!

当時、常務だった私は、坪単価数万円増でできるこの工法を取り入れようと必死でしたが、
そのコストアップを営業に認められず、建売住宅でコソ~っと試させて頂きながら、
その技術と実績を磨いていきました。

あなたが社長です。

・・・9年前のことです。
会社がちょうど、次期社長を模索している所だったようです。


なんと、私が社長に任命されました。


ちなみに、私は創業社長の血縁関係ではありませんが、
「当時、会社を任せられるのは大森さんしかいない!」
と外部から推薦を受けたのです。

その話を家族にした時は反対されました。
特に嫁には反対されました。
本音を言うと、私もやりたかったわけではなかった。

ただ、設立当初から自分が携わってきた会社。
何より、そこで家を建ててくれたお客様がいる。

「半年待って下さい」

再びそう言った私の心は今回も腹は決まっていたのかもしれません。
が、当時は悩みに悩んで社長を引き受ける決断をしたのです。

そして、その時にもう一つ決意したことがあります。

住んだ人がかならず幸せになる家をつくる。

稚内珪藻土と抗酸化工法を使った家づくり。
そして、お客様が幸せになるためのプランづくり。
これをタカトーホームの家に住まう全てのお客様に提供する。

宣言! これからのタカトーホームの家づくり

社長に就任して、2年目。
当時の会社の体質も変えるためにも、

「これからのタカトーホームは全棟健康住宅をつくる」

と、社員一同を集めて宣言したのです。

当時のメンバーからは猛反対を受けました。
同時に「値引きはしない」という方針をはじめ、
特に営業にとっては厳しいルールをつくったからかもしれません。
それを期に辞めてしまう社員も少なくありませんでした。
と・・いいますか、当時の営業メンバーは最終的に全員いなくなりました。

スタッフがいなくなってしまったのは正直ショックでした。
長年一緒にやってきたメンバーもいましたので。

しかし私の決意は変わりませんでした。

会社を正常な状態に戻すため、
つまり、お客様に喜ばれる、役に立てる家づくりをするために、
確信の持てる方法は、それしかなかったのです。


それから6年・・・

おかげさまで今では、
お客様からお客様にご紹介でお仕事をさせて頂く機会が多くなってきました。

また、スタッフも皆、明るく元気に(ちょっと元気すぎるものもいますが・・・)
仕事をしてくれています。

私のやってきたことは間違ってなかった。
そう実感することが増えてきた今日このごろです。

私の夢には続きがあります。

これからもタカトーホームは、
お客様に幸せを提供するために家づくりを続けていきます。

そして、
地域の住宅会社としての役割をしっかりと担っていきたいと考えています。

理想は、タカトーホームが地域の幸せな暮らしの発信基地に。

家づくりのことはもちろん、
その後のくらしのこと、

さらには、
地域の皆様の日常の暮らしを楽しいものにできれば。 
家づくりという垣根を超えた地域のお付き合いができる会社、
スタッフになっていければ、これほど嬉しいことはありません。

そんな夢を描きながら。
スタッフ一同頑張ってまいりますので、どうか暖かく見守っていただければ嬉しく思います。