~創業物語~ 株式会社髙藤建設 会長 髙藤幸偉


~地元に、人に、支えられて生きてきた 髙藤幸偉の物語~

f5474ded803655195ebde3ebafe8d6abこんにちは、株式会社髙藤建設 会長 髙藤幸偉です。
おかげさまで、私たち髙藤建設は、まもなく40年を迎えます。

現在は、地元群馬県太田市のみなさまを中心に、マイホームを
提供させていただいておりますが、振り返ると、たくさんの人
に支えられ、多くの出来事を経験した40年でした。

この物語は、髙藤建設創業者である私、髙藤幸偉が、
地元に、人に、支えられて生きてきた感謝の気持ちを込めて、
綴らせていただきました。

自身の半生をお伝えするのは些か恥ずかしくもありますが、髙藤建設の家づくりの原点、そして、地元に住まうことの素晴らしさ、マイホームづくりの魅力をお伝えし、これから家を建てるみなさまに、少しでもお役に立てればという想いですので、少しの時間お付き合いいただければ幸いです。

◆4人兄弟の末っ子、船乗りになりたい!と夢見ていた幼少時代

私は、長野県滋野村(現在の東御市、小諸市)に、
農家を営む家庭の4人兄弟の末っ子として生まれました。

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今の時代では考えられないかもしれませんが、当時は勉強よりも家の仕事の手伝いという時代。春は田植え休み、夏休み、稲刈り休み、冬休み、寒中休みっていうのがあって、休み中はずっと家の手伝いをする、そんな少年時代を過ごしました。

中学を出ると、集団就職。家を継ぐ長男を残してみんな家から出て行きました。

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「中学を出たら家を出ることになる。どんな仕事がしたいか」
そう考え、修学旅行で見て感動した「海」の仕事に憧れて「船乗りになりたい!」と思って、いろんな本を読んで勉強をしていました。 
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が・・・

その夢はあっさり諦めることになりました。

一等航海士になるためにはこんな学校をでなければいけない、これだけのお金がかかる、など、当時の私からすると、知ればしるほど遠い世界だったのです。

その厚い壁は、調べ出したことを後悔(航海)するくらい高いものでした(笑)

結局集団就職で家を出て、繊維工場で働くことになりました。始め3ヶ月は愛知県名古屋市で働き、その後、髙藤建設の創業の地である群馬県桐生市で働くことになったのです。

◆このままではダメだ! 駆けこむように入った大工の道

繊維工場の仕事は、毎日毎日同じ仕事の繰り返し。
30人の社員のうち、男性社員は私一人という環境でした。

「髙藤、髙藤!」と声をかけられ、給料も7000円とそれなりにいただいてはいましたが、続けるうちに、このままこの仕事を続けていていいのだろうか? 自分にはもっとできることがあるのではないか? そんな風に思うようになってきました。

「やっぱりこのままではダメだ!」

そう思った私は、勇気を振り絞って寮母さんに相談したのです。

「ここを辞めたい。どこか仕事を紹介してくれませんか? 」

そうして紹介していただいた仕事は、大工の仕事でした。駆け込むようにして入った大工の世界。住み込みで働かせていただきましたが、給料は7000円から2000円になり、とにかくそこで頑張るしかありませんでした。

◆この人のためなら。一生涯の師匠、親方との出会い

たまたまの偶然、全くの素人で入った大工の世界でしたが、ここでのご縁が私の人生の大きな転機となりました。

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そのご縁というのが、当時の親方との出会い。私の一生涯の師匠とも言える方との仕事でした。親方は面倒見のいい方で、当時住み込みの大工は7人くらいいたのですが、何も知らずに飛び込んできた私を一人前の大工になるまで、一人の人としてお世話してくれたんです。

10大工仕事はもちろんですが、その一生懸命生きる背中を見て、この人のために働きたい、親方と一緒にたくさん働いて、会社を大きくして恩返ししたい! そんな想いにさせる立派な人でした。住み込みで8年、25歳になったときに結婚し、家庭を持って8年、計16年勤めさせていただきました。

ただがむしゃらに働いていた16年、結婚もし、家庭もでき、順調とも言えるあるとき、私にとって、人生で一番のショックとも言える出来事が起きたのです。

◆親方の死 そして倒産

私が入社16年目、親方が病気で倒れ、49歳の若さでなくなりました。

親方を失った会社はみるみるうちに仕事がなくなり、当時抱えていた負債を払いきれなくなっていきました。せがれさんもいらっしゃったのですが、まだ20歳と若い。そのせがれさんが会社を継げるようになるまで、なんとか会社を盛り上げようと私も番頭として、一生懸命やって、任されるまでになったのですが、残念ながら限界が来てしまいました。

社員に給料が払えなくなる。
業者さんにお支払いができなくなる。
やりかけの現場が終わらない。

今思っても、人生で一番辛く厳しいときでした。社長が入院しているころ、「もう危ないかもしれない」と聞いて、今後の会社について、相談する相手を探していました。弁護士さんにも相談していたのですが、お金を払わないと教えてくれない、当時はそんなお金の余裕はありませんでしたので、他の方法を探しました。

行き着いた先は、公証人役場というところ。
相談をすると、会社の資産の差し押さえ、借金取りへの対策、ここでは語りきれないくらい生々しい話が現実となって降ってきました。

「お世話になった親方のために」

そんな想いで、毎日、ない頭を振り絞って、24時間フルに使って頑張ってきました。

ある資産を全て売り、回収できるお金は全て回収し、もちろん私にとれる給料はありませんでしたが、番頭として、会社を守ること、そしてご迷惑をおかけした方々にせめて何かできないか…と考え、動きました。

家にはお金を入れることが出来ず、妻の給料で生活をしていました。そんな生活が1年近く経ったころでしょうか、私もそろそろ限界を感じていたころ、ようやく債権者との縁が切れて事態は収束に向かいました。関係者の方にも迷惑をかけた、妻、家族にも迷惑をかけた。ご迷惑をかけた皆様への気持ちは一生忘れません。

◆家に残された大きな建築機械 独立へ

1何も残されていない会社から「これを給料の代わりに」と、譲り受けたのは大きな建築機械でした。家の庭にある大きな建築機械を眺めながら考えた、当時32歳。

「新たな人生は、建築の道で食べていくしかない」

私は、独立の道を選びました。「3年で返す」という約束で家族、親戚に借金をして、妻と妻の弟で仕事を始めました。妻には当時から本当に苦労をかけているので、申し訳ない気持ちと同時に、感謝の気持ちでいっぱいでした。

「何でもやります!」

まずは、信用されなくてはいけない。親からの教えでもあった「信用される人になれ」という言葉を胸に秘め、大工の仕事にこだわらず仕事を探しました。家や庭の片付けから、解体工事、トタン張りに溝掃除、本当になんでもやりました。

そんながむしゃらに仕事をしていると、現場にきていたある設計事務所の方から声がかかりました。

「紹介するからまた、頼みますよ」

設計事務所の方に気に入っていただき、初めてリピートの仕事をいただき、そこから継続した仕事をいただけることになったのです。

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◆仕事の広がり 住まいづくりの仕事へ

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このことをきっかけに、徐々に大工としての仕事が増え、会社にもお金が入ってくるようになりました。仕事をいただける喜び、お金が入ってくる喜び、嬉しかったのと、ここが頑張り時だ! という使命感でとにかく働きました。

会社も徐々に大きくなり、人も雇えるようになりました。

が、しかし10年経ったころ、今度は私の体に限界が訪れました。胆石で1ヶ月の入院を余儀なくされてしまったのです。ただ、この1ヶ月の入院が私にとってこれからの人生、会社の将来を考えるとても貴重な時間となりました。

◆大きくなる会社、不安を支えてくれた3人の仲間

1ヶ月、ベットの上で考え出た結論は、元請けの仕事を増やすことでした。下請けで私が大工仕事をしなくてはお金が入らない状況では、限界がある。

元請けになって、5箇所くらい現場を同時に動かして・・・私がいなくても仕事が回るような体制をつくって・・・ そうすれば、一緒に働いている仲間に迷惑をかけなくて済む、仕事を提供し続けられる! そう思ったのです。

ただ、それには、協力してくれる仲間が必要でした。

会社の立ち上げには、私だけの力、知恵だけではダメだ、共に協力してくれる仲間を探さなければいけない。私は、仲間を探しました。

「一緒にやらないか」

4信用できる仲間に何度も声をかけ、幸せなことに、これから始まるいばらの道に、3人のメンバーが集まってくれました。

そして、3人目に合流したのが、私がどうしても一緒に仕事がしたい! と思い、ラブコールを送り続けていた、若かりし現社長、大森美明でした。こうして、私と仲間3人、昭和63年に法人化が決定。株式会社髙藤建設としての歩みがはじまったのです。

◆仲間に支えられて

「こんなに心強いものなのか」

仲間との仕事は充実していました。もちろん、大変なこともたくさんありましたが、独りでやっている頃に比べると、心の充実感がありました。

5市況の良さも手伝って、会社も徐々に拡大してきました。地図に残るような仕事をということで始めた仕事は、分野も様々に増え、住宅においても、展示場の出展をきっかけに、知名度が上がり、お客様からの支持をいただけるようになってきました。

私は、3人の仲間と一緒にやることを決めた時、ある夢を持っていました。

その夢とは、

「近い将来、この3人全員、社長として自分の仲間をもって仕事をしてもらいたい」

ということです。

今、大森くんが、株式会社髙藤建設の社長として、仲間と共に頑張ってくれている様子は、私にとって何より嬉しいことです。

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今の髙藤建設の家づくりに協力しくれたのは大森くんです。私は大工一本でここまでやってきましたので、家を造ることはできましたが、お客様の喜ぶ家の企画や、暮らしの提案などは、苦手でした。

「お客様のために何ができるか?」

恥ずかしながら、本当の意味でお客様に喜ばれる仕事を考えるようになったのは、元請けとしてお客様の家づくりをさせていただくことがきっかけでした。

会社を引き継いでもらった時は、非常に厳しい時で苦労もかけましたが、仲間と協力しながら、今の時代に合ったお客様への提案を考え、支持を得ています。そんな大森くんとスタッフたちにこれからの髙藤建設を任せる。私の夢の一つが叶った瞬間でもあります。

頑張れ! 大森くん!

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ーーーあとがきにかえて

OLYMPUS DIGITAL CAMERAここまで、お読みいただきありがとうございました。
偉そうに半生を語ってきましたが、今、振り返って思うことは、「私は、一人では何もできない人間だ」ということです。

親方、おかみさん、寮母さん、仕事のきっかけをくれた業者のみなさま。
妻、両親、親戚、こどもたち、そして今、高藤建設のお客様。

たくさんの人に支えられ、今の私があります。
先日、そんな何もできない私に、とても嬉しい声をかけてくれた方がいました。

「あんときは大変だったね」

当時、迷惑をかけた方々です。
時が経ち、今はまた、仲間として一緒に働いてくれている方もいらっしゃいます。もちろん、仕事をする上で大変な迷惑をかけたので、当時のことは忘れてはいけない。でも、少しでもそう言ってくれる人が現れたことは、私にとって救いでした。

8私は今、高藤建設を大森社長はじめ、スタッフのみなさんに任せ、太田市の市議会議員として働いています。地元、太田の住まいづくりは、みんなが本当によくやってくれています。だからこそ、私自身が、他の分野で貢献できることはないか? と考えていました。

そんな時、偶然お声をいただいたのが市議会議員のお話でした。話があるまでは、自分が選挙に出るということは、想像もしていませんでしたが、妻からのすすめもあり、挑戦させていただくこととなりました。実は、私の父親も議員であり、結果としてその足跡を追えていることにも何かの縁を感じます。

60歳過ぎの新人議員ですが、今までお世話になった地元のため、人のためになればとがむしゃらに走り回る毎日です。船乗りを夢見た少年を育ててく人たちのために。今後も、この地元に貢献できるよう取り組んでまいりますので、髙藤建設をどうぞよろしくお願いいたします。

株式会社髙藤建設 会長 髙藤幸偉

⇒代表取締役 大森美明の物語はこちら